古澤 満コラム私は子供のころからラマルクの“獲得形質の遺伝”に興味を持ち、進化を目の前で見ることが夢であった 古澤 満 古澤 満
 

夜の街で飲んでいても、昔から私の職業を当てるホステスは殆どいませんでした。芸術家、演出家、作家、果ては正職を持たずにぶらぶらしている人、といった具合です。外観からは自由人(free spirit)に見えるそうです。齢も80代の半ばに入りましたので、この機会に少し自己分析を試みてみました。結論から言いますと、私の人格の核となる部分は、極東国際軍事裁判(東京裁判)(1946年5月)の開始時に形成されたようです。

満州事変勃発日の丁度1年後の1932年9月18日生まれですから、敗戦の年の12歳までは軍国日本の真っただ中で育ったことになります。物心が付くころは、親の言うことをよく聞き、成績も良く、やや神経質な子供でした。勝気ですが、喧嘩に弱いのがコンプレックスとなっていました。1941年に国民学校と名が変わってからの初等教育には軍隊教育が導入され、特に敗戦の色が濃くなってからの中等教育、中でも教練(軍隊教育)は恫喝と暴力の空間でした。人並みに軍国少年であった私でも、自ずと厭戦気分が湧いてきました。当時は軍政府の方針で、「男はお国のために死ね。捕虜になるのは恥であり、自決せよ。」と毎日お経のように聞かされました。11〜12歳の子供には、正直言って死ぬのは怖いが、そんなものかなとそれなりの覚悟を決めていました。毎日のようにB29による爆撃と艦載機による機銃掃射に曝されている現実の中で、私達はやがて来るだろう本土決戦による戦死や、自決を覚悟していました。原爆投下で予想より降伏が早くなり、政府と軍部の要人は捕虜となりました。やがて東京裁判が始まるのですが、A級戦犯容疑者126名中、自決者は4名でした。私達は当然全員が自決すると信じていましたから、全く予想外の出来事でした。武士道はどこへ行ったのか?あの軍隊教育は何だったのか?そして、生徒の前で何の釈明もなく、何事も無かったように民主教育の受け売りをする新制中・高校の先生を見るに及んで、多感な時代にあった私は、全ての年上の人を信じることができなくなりました。畢竟、学校が嫌になり成績は最下位レベルに急降下、同級生の親友達とは別に、年下の不良少年と陰で付き合うようになり、一歩間違えばドロップアウトするところでした。噂では、その内の何人かは不幸な人生を送ったと聞いています。しかし、両親が見て見ぬふりをしてくれたのが助かりました。たった一度、父親を殴ったのもその頃です。後になって、両親は私を信頼してくれていたことが理解できました。過去の忌まわしい出来事を払拭するために野球に没頭し、自分で生きる道を切り開くしかないと決心したのは大学院に入ってからのことです。余談ですが、仮にA級戦犯の方々が東京裁判の始まる前に全員自決をしていたら、外国の日本を見る目も違ったろうし、結果はともあれ、今日の日本の姿は無かったと思います。

大学院の入学当時は、生物学の中で、学問として系統化されたものは分類学と遺伝学でした。アプリオリにこれらを避け、加えて、生物学科の各研究室で行われていた研究には一切興味を持てませんでした。おそらく、上に述べました少年時代のトラウマが影響していたものと分析しています。そこで、幼い頃からの夢でもあった、進化の加速が可能な新進化理論を構築することを生涯の目標にしました。その実現は、大学を中途退職し企業に入ってからのこととなります。詳しい経緯は『第14回古澤コラム』をご覧下さい。

先輩を信用しないという屈折した精神構造は、日頃の私の言動に現れないはずもなく、25年間の大学生活では、研究・思想・大学改革、などの諸問題に関して確執や軋轢を生むこととなり、50歳で大学を去ることになりました。企業で25年、退職してから約10年が経過し現在に至っています。人生は分からないもので、もし、この転職の機会を逸していたら(遡って、少年時代のトラウマが無かったら)、おそらく不均衡進化理論には行き着いていなかったでしょう。

自分で言うのも変ですが、現在の私は、性格は極めて明るく、決して屈折していません。今では多くの年下の友人がいて(元気な年上の方がほとんどいないこともありますが)、共同研究、スポーツ、そして酒宴での語らいを楽しんでいます。先に、「全ての年上の人を信じることができなくなった」と書きましたが、勿論、諸先輩の優れた研究には多大の敬意を払っていますし、戦争の犠牲となられた方々への感謝と、御霊の安寧を忘れたことはありません。

人格は遺伝と環境によって決まると言われます。体が華奢であるのは遺伝と発育期の栄養失調が原因でしょうが、この肉体的コンプレックスはスポーツと空手に集中することである程度克服できました。問題は心に受けた衝撃です。私の場合、敗戦が第二、第三次反抗期と重なったため、トラウマが増幅され、脳に深く突然変異のようにインプットされたのに違いありません。実は、本来は生真面目で、心配性で、一人で考え込むタイプです。明るくて、自由人的性格は、二十歳を過ぎてから、薬やカウンセラーの力を借りずに自力で創り上げたものです。私の場合はトラウマをばねにして仕事をし、さらに、意図的に性格(人格)を変えることに少しは成功したと思っています。ご参考になれば幸いです。

2016年11月10日
古澤 満
古澤 満
バックナンバーはこちら

第1回  『進化と時間を考える』
第2回  『進化と時間を考える ― 続き ―』
第3回  『遺伝とDNA』
第4回  『エル・エスコリアル サマーコース』
第5回  『生物を支配する法則を探る ― 元本保証の多様性拡大 ―』
第6回  『生物を支配する法則を探る ― 保守と革新のカップリング ―』
第7回  『進化を目の前に見る事は可能か? ― @プロローグ ―』
第8回  『進化を目の前に見る事は可能か? ― A偶然の出会いときっかけ ―』
第9回  『目の位置』
第10回 『S氏の事』
第11回 『外国を知る』
第12回 『私とスポーツ ー野球・空手ー』
第13回 『私とスポーツ ースキー・ヨット・テニス―』
第14回 『大学での研究を振り返って』
第15回 『進化学と思考法』
第16回 『東電第一原子力発電所の事故と男の友情』
第17回 『体験的加齢医学』
第18回 『分子生物学の新しいパラダイム』
第19回 『往年の名テニスプレーヤー清水善造氏との出会い』
第20回 『芸術と科学』
第21回 『心に残った重大な出来事』
第22回 『自然科学と進化研究』
第23回 『ガードンさん、ジーンさんノーベル賞受賞おめでとうございます。』
第24回 『競技場内研究者』
第25回 『文系と理系』
第26回 『人生ままならぬ』
第27回 『STAP細胞仮説は科学の仮説ではない』
第28回 『人は一生で2回以上死ぬ!?』
第29回 『多様性と進化のパラドックス』
第30回 『科学者としての父を語る』
第31回 『熱帯多雨林に多種類の生物が密集している理由』
第32回 『日本語で考える』
第33回 『私の人格形成過程を振り返って』
第34回 『タスマニア・クルージングて』
第35回 『天才遺伝学者、アマール・クラー博士逝く』

◆ 第36回以降は「CHITOSE JOURNAL」へ移動しました ◆

印刷する

CLOSE

 

Copyright 2002-2013 Neo-Morgan Laboratory Inc. All Rights Reserved