ながらく御無沙汰しておりました。さて、今回は不均衡進化論を思いついた経緯をお話しいたします。第5回のコラムの中で示している家系図(図3)は、不均衡進化論のコンセプトを簡潔に現した図です。以下に紹介しますハプニングが起こったその日の夕方に出来上がったものです。場所はいつも御厄介になっています親友である小松宏至博士のご自宅です。以前、私は大阪市立大学理学部生物学教室で教員を務めていました。小松博士(現、名誉教授)は物理学教室の同僚でした。
1983年、上記大学から第一製薬(現、第一三共)に移り、東京で単身赴任生活をしていました。1988の10月上旬に、上司であり転職のお話を頂いた岡野淳二取締役から、大阪バイオサイエンス研究所でコーンバーグ博士の講演があるから行ってこないか、という電話を頂きました。講演を聴くのが苦手な私は、生返事をお返ししましたがすぐに電話があり、自分も行くからお供をしなさいということになり、これは難儀なことになったなと思いながら新幹線に乗りました。ところが車内で、君はなれない単身赴任で辛いだろうから、出張のついでに西宮の家族に会って来なさいという意味のことをおっしゃいました。岡野氏のお心使いもつゆ知らず、本当に失礼をいたしました。岡野氏が同行されたのは、きっと私一人では絶対別の所へ行ってしまうと思われたのに違いありません。
10月27日に行われたコーンバーグ博士の講演内容は、DNA複製に関する生化学的な研究の集大成で、博士のノーベル賞受賞で有名な研究でしたので知識としてはよく知っている内容でした。でも、とにかくビッグネームなのでいつになく真剣に聴いていました。講演の中ほどで、教科書でよく見なれたDNAの連続鎖と不連続を使った複製装置の図1(S.
Spadari, et al., Mutat. Res. 219, 147-156, 1989)に示したような綺麗な模式図が写し出されました。その瞬間、突然頭の中である考えがよぎりました。「そうだ!不連続鎖はごちゃごちゃしているのでエラーが起こりやすいに違いない!」居ても立ってもおれず、講演が終わって会場を出て行かれる博士を捕まえて、自己紹介もそこそこに、古澤「あの絵は本当ですか?」。博士「本当にそうなっているかは保証できないが、大まかの構造は合っていると思う」。古澤「もし、変異が不連続鎖に偏っていたら進化が加速できるのでは?」。博士は、突然変異は私の専門ではないと断った上で、二三人の研究者の名を挙げて、その人達と話してはどうかという示唆を下さいました。論文の原稿が出来たらとりあえず送って下さいとも言われました。論文の要旨はすぐに書けましたのでファックスでお送りしたところ、間髪を入れずに、私はやはり理解できない点があるので専門家に相談するか、論文を完成させて専門誌に投稿するように、時間がもったいないので急いだ方が良いとのファックスを頂きました。これからが大変で、「古澤の考えは集団遺伝学的熱力学の根本原理にもとる(悖る)」(第1回コラム)、といった趣旨の集団遺伝学者のコンセプトとの戦いを強いられ、最初の論文の受理は実に4年後の1992年になってしまいました(Furusawa
& Doi. J. theor. Biol.1992)。今から考えますと、横綱に挑む序の口力士のようなもので(今でも状況は大して変わりませんが)、とても勝てる気がしませんでした。ファックス・電話・海外渡航(セミナーと討論)と、よく頑張ったなと自分を褒めてやりたい気持ちです。この取り組みの軍配は“痛み分け”といったところでした。もちろん、最初の論文受理は海外の著名な諸研究者のご理解とご尽力の賜です。
ここで本題に戻ります。前回の第7回コラムで、「直観とは一見無関係に見える別々の事象の間に共通点を発見する能力である。」と落語の三題話を例にして説明しました。小学生の時から進化を目の前で見てみたいと思い、進化の加速を研究するために大学へ行った訳ですが、大学での25年間は学生に良い論文を書かせるために進化とは全く関係のない分野の研究をすることを余儀なくされました。(進化ではなかなか学位は取れません。)語弊があるかも知れませんが、研究者としては大学時代の私は“仮の姿”だったのです。ところで、不連続鎖は岡崎怜治博士らによって1968年に発見されました。その論文を見て以来、奇妙な現象だなとずっと心に引っかかっていましたが、それ以上のものではありませんでした。それが突如進化と結びついたのが実に20年後であったという訳です。常に進化の加速を想い続けてきた私としては、その間いったい何をしていたのでしょう?定年間近の56歳になってやっと研究の本道に立つことができたのですが、あまりにも遅すぎます。この時ほど自分の年を悔やんだことはありません。多分、コーンバーグ博士の存在と上司の同席という一種緊張した環境がそうさせたのでしょう。もし、ずっと大学にいて第一製薬に行かなかったら、そして岡野氏という上司に巡り合わなかったら、多分不均衡進化論は思い付かなかったに違いありません。
終わりに、関係する逸話をご紹介しましょう。1992年6月18日、渡辺格先生が主宰されていた「DNA研究会」でセミナーをしました。話し終わった時、先生に「先生は岡崎さんが不連続鎖を発見されたとき、グループの長をされていたと思いますが、研究室でどのような議論があったのですか?」。渡辺先生のお答は「確か数日間にわたって激論したと記憶している。結局は生物というものは連続鎖の方で生きていて、不連続鎖の情報は使っていない。つまり、不連続鎖はダミーであるという決着だったな。」。そしてしばらく間をおいて、「そーか、古澤君は連続鎖で遺伝を担保し、エラーの多い不連続鎖の方で進化していると言いたいのだな。僕らはばかだったなー。何で気が付かなかったのだろう?」。先生それは無理ですよ。当時は不連続鎖の存在自体も認められていない状況で、変異率の差を論じ、且つ、進化の加速に議論を展開することが出来た人がいたとしたら天才ですよ。といった意味のことをお答えした記憶があります。
まとめますと、1)自分の本当にやりたい研究を常にぶれずに意識し頭の中に持ち続けること(私の場合は進化の加速)、2)心に引っ掛かる現象や言葉(自分の常識とはかけ離れたものが隠されている可能性が高い)を常に反芻し意識として持ち続けること(私の場合は不連続鎖)、3)一見関係の無さそうな両者が、何かのきっかけで結び付いた時に新しいコンセプトやパラダイムが突如生まれるということになります。ロジックだけでは決して新展開は生まれてこないというのが限られた私の経験から出てきた答えです。何故なら私の場合、研究で使っているロジックは精々三段論法ぐらいのものであると自覚していますから。
上で述べた“きっかけ”は、学会や講演会でも、スキーで転倒した瞬間でも、飲んで騒いでいる時でも何でも良いのです。76歳になる今では、“きっかけ”の中でも遊びの部分だけがかろうじて稼働しているようです。今朝もテニス・スクールのコーチが打った近距離スマッシュが顔面を直撃し、目から火が出ましたが、今のところ何の閃きの兆候もありません。
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