ここのところいろいろと忙しくしていましたので、久しぶりのコラムです。今回は、文系と自然科学について論じてみたいとと思います。
わが国では、人間を文系と理系の2種類に分類する風習があります。学生時代に数学が嫌いな人はとりあえず文系に、得意な人は理系の学校に進む傾向があります。学校教育では、文系・理系への分化は中学校から始まり、高校を経て大学で決定されます。社会に出ても、何とはなしに文系・理系のイメージが出来上がり、文系同志、理系同志が集まるようになります。多分それぞれに共通の知識と話題が多いからでしょう。
私の感覚では、文系の代表格は文学部と法学部です。昔と違って最近では、経済学や政治学は数学も使うので、どちらかと言うと数理的頭脳が要求される学問分野に入るでしょう。斯く言う私は、生命科学を専攻していますから明らかに理系に属するのですが、あいにく数学は大の苦手です。
私のように、数学が苦手なのに理学部に入った人は、昔は医学部に移るか、理学部の生物学科(または地学科)に行くしかなかったのです。よって私は、この年になるまで数学者と物理学者に対する劣等コンプレックスを持ちながら研究生活を続けてきたことになります。ではなぜ、複雑な確率統計学的手法を必要とする不均衡進化理論に行き着くことができたのでしょうか? 一言でいいますと、"素人の怖さ知らず"の産物です(第8回コラム参照)。不均衡進化理論の発見当初のことでしたが、私の講演が終わったとき、二人の若い物理学者が寄ってこられて、「貴方は確率統計に非常に強いですね。新しい世界が貴方を待っていますよ」と言われた時には穴があったら入りたい気分になりました。高校の数学の授業で、確率が出てきていっぺんに数学が嫌になった私です。その時は彼らの言葉の真意が全く理解できませんでした。今思い起こしますと、不均衡変異のコンセプトを踏まえて「アイゲンの準種の方程式」を解くと、進化加速が理論的に実証できることを彼等は気づいていたのです(1)。それ以来私は、数学者と物理学者に積極的に接触するようにしてきました。
さて、文系・理系の話に戻しましょう。上記の数学者、物理学者との懇談会の中で、どなたかは忘れましたが、「ゲーデルの不完全性定理」に関する本を読むように薦められました(2)。この定理を完全に理解した訳ではありませんが、著者の言うように、「数学は結局、思想なんだ」であり、文章作成と同じ理屈であることが初めて理解できました。つまり、正確で論理的に矛盾のない文章を書ける人は数学者の素質があるということです。
以上の文脈が正しいとしますと、正確さを一番必要とするのは法律の文章です。法律の文章は、漏れがあったり、論旨が脆弱であってはなりませんし、何よりも正確で明快でなくてはいけません(小説のように美文である必要は全くありません)。従って、これまでできるだけ近寄らないようにしていた法律家の中には、実は私より遥かに自然科学に向いている人たちが居る可能性が高いことを意味します。文系と理系に分けるわが国の教育システムは、もしかしたら自然科学の発展にとって阻害要因になっていたのかも知れません。
実際、英国のケンブリッジ大やオックスフォード大ではカッレッジ制がひかれ、放課後や休日には同じカレッジに所属する文系・理系の先生方と学生とが自由に話し合える機会を意識的に作っています。これが文系・理系のミキサーの役目を果たしています。今国会では教育制度の改革が議題の一つになっていますが、この視点に立って再考してみる必要があるように思います。
1) Aoki, K. and Furusawa, M. (2003). Increase in error threshold for quasis-pecies by heterogeneous replication accuracy. Phys. Rev. E Stat. Nonlin. Soft Matter Phys. 68 (Pt 1), 031904.
2) 『ゲーデル・不完全性定理』吉永良正著(講談社BLUE BACKS)1992. |