現在78歳の私の背丈は167cm、体重は53kgです。大学を卒業してから今日までこの数字はほとんど変わっていません。この年齢としては背の低いほうではありませんが、高校生まではクラスで前から2,3番目でチビでした。スポーツらしきものを始めたのは戦争が終わった年の中学一年生(旧制岸和田中学)からです。大阪泉南の尾崎という、和歌山に近い漁師町(現、阪南市尾崎町)に居たころです。千軒程の小さなこの町に、南海ホークスの現役の正遊撃手・小林悟楼選手の自宅があって、町別対抗の軟式野球大会で一緒に試合したのがきっかけで野球にのめりこみました。小学校の同級生を中心にヤングスというチームをつくり捕手をしていました。技術が下手か非力なものの順に、右翼手・二塁手・捕手が割り当てられました。ご存じのように、近代野球では最も重要なポジションですが、なぜかこういうおきてになっていました。それ以来、50歳で野球をやめるまで捕手を務めることになります。
ヤングスは決して強いチームではありませんでしたが、自分たちで工夫して野球技術を磨きました。親友の広島幸夫君(当時近畿大野球部)の五つ年下の中学一年生の弟さん、尚保君(衛=まもる、と改名)も短期間ですが途中で参加しました。衛君はのちに浪商の主戦投手の一人として第27回選抜大会で優勝し、横手投げに変えて、中日ドラゴンスで年間15勝をあげたことのある人物です。少年時代はきれいな上手投げで、少年にしては球に伸びがあり、大人にも簡単には打たれませんでした。衛君とバッテリーを組んでいたのが私の自慢の種です。
佐野高校に進学してからは野球部に入り控えの捕手として野球を学びました。金沢大学では旧制四高以来の伝統のある北溟寮という大きな寮に入りましたので、早速、もと高校野球部員を集めチームを作りました。岐阜大垣高校のエースであり大学の硬式野球部のエースでもあった野原君が投手ですから、非常に強いチームでした。おそらく私が過去に属していた中では最強のチームだったと思います。戦後間もない頃でユニフォームをそろえる余裕はなかったのですが、道具は各自自前の良質のものを使っていました。確か当時、金沢で最強といわれたクラブチームのイーグルスを2対0でシャットアウトしたことがあります。相手エースのアウトコースに落ちるナックルボールを右中間に打って打点を稼いだことが今でも記憶に残っています。
大阪市大の教員になってからは、理学部の教職員と院生を中心にダホレスという妙な名のチームを作りました、このチームは地区の実業団の軟式野球リーグでは相当の成績を残しています。これとは別に、全大阪市大の35歳以上の教職員からなるオフィシャルチームに所属していました。市の部局トーナメントで、もう一勝すれば大阪市代表として神宮球場へ行けたのですが、優勝戦で相手チームにいた阪神タイガースのファームの選手に、たて続けに2本スタンドに放り込まれて負けた苦い想い出があります。50歳で大学を離れましたので野球はお終にしました。
つまり私は人生の半分を草野球に没頭していたことになります。その間、ほとんど5番を打っていました。非力ですがバッティングには結構自信があり、終身打率は3割を優に越していると思います。多分、投手のボールを受けている間に、球の回転と球筋を見極める目が自然と養われたのでしょう。苦手の人が多いインコースの高めが大好きで、少しバットの芯を外れた手元に近いところでボールを押し出すように強くたたくと、魂の抜けたような弱いハーフライナーが左翼手の手前に落ちることになります。投手を落胆させる意味でも打撃の極意だと勝手に自分で思っています(イチローもこんなこと言っていましたっけ?)。また、投手に返球する時、試合中でなくても必ず立ちあがって返球するようにしていました。数え切れないほどの返球動作の繰り返しが、80歳に近い今日でも、若い人と一緒にスキーやテニスを楽しめる柔軟で軸がぶれない足腰を作ったものと考えています。
ところで私は、趣味というものは、それで飯が食えるほどのものであるべきだ、という信念を持っています。野球に関しては、全く身体能力不足で論外でしたので、何か他のスポーツをと考えました。泉州という土地柄は、「喧嘩の強いものがエライ」というはっきりしたコンセプトが根付いています。尾崎の自宅の筋向いに浮田恭二君という4つ年下の友人がいました。彼は子供の時から空手を習い、やがて個人道場を持つに至りました。彼は私の憧れの存在でした。
30代半ばのころ、兵庫県・西宮の自宅の近くにできた糸東流空手道場に入門しました。第11回コラムでも触れました舟橋・山田両師範は大阪商大の空手部師範も兼ねておられましたので、空手部の学生やOBもときどき道場を訪ねて稽古をつけてくれました。自分で言うのも変ですが、空手は私に向いているように思えました。週2回、無我夢中で練習し、大学の仲間やドイツの友人の道場の門下生に教えているうちに何とか形になってきて、50歳で東京の旧第一製薬に移る時には5段(師範代。6段=師範)をいただきました。遅くから始めたので、多分におまけとはなむけの意味もあったでしょうが、今は亡き両師範、空手を共に学んだ若くして他界した三山勝寿君はじめ、同門の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。結局、空手でもお金を頂けるようにはなれませんでした。あの時、浮田君に教えをこうていたらと悔やんでいます。
空手で一番大切な点は、体のどこか一ヶ所でクッション(ため=バネ)を作り、残りの部分、とくに上半身はできるだけ力を抜いておくことだと悟りました。私の場合は、足の親指の付け根の関節で"ため"を作っています。空手を習っている方、ご参考になれば幸いです。
ここまで読んでこられた読者は、科学者であるはずの古澤が、なぜそこまでスポーツや武道に凝(こ)るのか?という疑問を持たれたことと思います。きれいごとを抜きにした本当の理由を言いますと、一つは脆弱な身体に対するコンプレックスの克服であり、他は、なにか楽しむ予定が決まっていないと、本業の研究に集中できないという、生まれつきのものぐさな性格にあります。泉州風に言い換えますと、「わいも喧嘩に強ならな」、「遊ばな、やってられへん」というわけです。
今回はここで一休みにして、次回は、またまた別のスポーツのお話になります。
続く。
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