自然科学の中でも進化学はちょっと異質の分野です。なぜなら、遠い過去の出来事を憶測せざるを得ないというハンディキャップを最初から負っているからです。そういう意味では歴史学や考古学に似ているところがあります。進化学の両極端にあるのが物理学です。物理学は物質の本質をとらえることに成功したのみならず、今や宇宙の始まりにまで言及するに至っています。この見事な展開は、研究の対象が直接観察し実験することができる物質(Matter)であることが大きな理由です。
さて、科学の基本は思考することです。ご存じのように、代表的な思考法として演繹法と帰納法があります。演繹法は、一般的原理から論理的に推論して個々の出来事の結論を導く手法です。例えば、〈生物は死ぬ〉→〈猫は生物である〉→〈よって猫は死ぬ〉。このような三段論法もその一つですが、欠点は、一般原理と思って使っていた前提がしばしば間違っている場合があることです。
帰納法は演繹法とは逆向きに理論を進めます。個々の出来事から出来事間の因果関係を推論して一般的原理を導きます。〈飼っていた猫は死んだ、犬も死んだ、小鳥も死んだ、カブトムシも死んだ〉→〈生物だから死んだ〉→〈よって生物は死ぬ〉。帰納法の欠点は、全事例を網羅できない限り確実な結論には達し得ない点です。例えば、上記のペットの飼育者が大腸菌も培養しているとします。大腸菌は永久に増殖していくように見えますから、"大腸菌は生物ではない"という誤った結論を出してしまう可能性がないとは言えません。人類は長い経験からこのような間違った証明に陥ることを避けるために、いろいろな手段を編み出してきましたがここでは触れないでおきます。上に挙げた二つの思考法のどちらかが勝っているという訳ではなく、普通は両面からの思考を繰り返し使い分けすることで真理により近づくとされます。
真理というものが本当に存在するかどうかは別にして、必ず真理に到達できる完璧な思考法など存在しません。ひるがえって、自然科学の教育や研究の場では、「よく観察しなさい。そうすると真理が見えてくるものです」という先生の言葉をよく耳にします。もちろんよく観察するにこしたことはありませんが、観察すれば本当に真理に近づけるのでしょうか? 私にはにわかには信じられません。
ひとつ面白いたとえ話を紹介しましょう。数学者であり哲学者でもある皮肉屋のバートランド・ラッセル卿(英国、1872−1970)は次のように言っています。「飼育小屋で何百匹というヒヨコが飼育されています。飼育係のおじさんが毎日決まった時間に餌をやりに来ます。ヒヨコたちはおじさんが大好きです。何か月かたったある日、餌の量が急に増え味も一段とよくなりました。ますますおじさんが好きになりました。数日後、みんな惨殺され鶏肉にされてしまいました。おしまい」〈一部脚色〉。われわれ人間がヒヨコであるとしてのたとえ話ですが、観察という行為が如何に頼りのないものであるかをよく物語っています。ゲノム研究やプロテオーム(網羅的にタンパク質を研究し、生命活動を理解しようとすること)に代表されるように、生物学の多くの研究では枚挙的に出来事を調べ上げる還元主義的・帰納的方法論が採用されます。それには観察という行為が重要な役目をはたしますが、観測結果の解釈に頼りすぎると落とし穴があることをラッセル卿が彼一流の言い回しで警告しているのです。
進化学には一般的原理なるものはほとんど存在していませんから("自然選択"は一般原理と考えられるが、進化のすべてを説明していない)、生物学の他の分野と同じく主として帰納法が採用されますがこれも自然の流れでしょう。進化研究の場でのラッセル卿のたとえ話を哲学者カール・ポパー(英国1902−1994)流に表現しますと、〈観測する〉→〈結果を一般化して理論を構築する〉→〈憶測を加える〉→〈理論を正当化する〉という流れに陥りやすく、このサイクルを繰り返して行くとますます真理から遠ざかることになります。進化研究のみならず、私を含めて大抵の生物学者は身に覚えがあるはずです。
ここにアインシュタインの自然科学に関する注目すべき言葉があります;「いろいろな事実を挙げ連ね、それらを場合々々に応じて説明していたのでは何も理解できない。大切なのは、さまざまな事象を統一的に扱う特有の原理(数理)を見出すことである」(『情報進化論』大矢正則著(2005年, 岩波書店)より、一部変更)。この文章から、アインシュタインは帰納法的思考の持ち主ではなかったと断言できますが、それでは演繹的思考でE=mc2 なる式が導き出せたのでしょうか? 聞くところによりますと、この式の創出には常人では理解できない独特の"ひらめき"が働いていたとされています。ニュートンの運動方程式や万有引力の法則が発見された経緯も例外ではないそうです。
話を進化に戻しましょう。進化の確かな証拠は化石にしか残っていない状況を考えますと、種の誕生のメカニズムを知ることは至難の業であることは誰にでも分かります。現存するす生物から任意に選ばれた二つの種(たとえば、カエルとヒト)は進化的因果関係にありません。カエルからヒトが進化した訳ではありません。つまり、現存生物の比較研究からは進化のメカニズムに関して言えば、実りある結果はあまり期待できません。カエルとヒトの共通の先祖動物とはカエルもヒトも進化的因果関係にありますが、その先祖動物はたいがい死んでしまっていて化石も残っていないでしょう。この状況では、上述した二つの思考法は種の分化の問題解決には大して力になりそうもありません。だからと言って、進化生物学者はただ手をこまねいているだけではありません。
進化の一般原理を追求しようと努力をしている例を挙げてみましょう。古くはダーウィンに端を発した進化の総合説があります。変異による遺伝的多様性の拡大、集団内の遺伝的浮動、生殖隔離、及び自然選択によって種が分岐するという今日王道とされている理論体系です。一方、知人であるリチャード・レンスキーのグループが始めた、大腸菌の長期培養による試験管内進化の実験が有名です。世代が極端に短い大細菌だからこそ可能な実験ですが、目の前で進化を観察できるというメリットがあるので評価が高く、常識と合わない結果も出つつあります。
わが国においても、金子邦彦・四方哲也らのグループの"構成的生物学"による進化研究は注目に値します。相互依存触媒系を含むモデル細胞を想定し、力学系の理論式を立てシミュレーションを行った上で、モデル人工細胞や大腸菌などを使って実証するという新手法です。細胞内のダイナミズムと細胞間の相互作用があいまって、"ゆらぎ"の上昇をもたらし、やがて時間とともに自然に状態を安定化させるというのが生命に共通する基本的な姿であるという結論です。そして発生と進化は、いったん獲得された安定状態が可塑性(ゆらぎ)をとりもどし再安定化の過程を通して達成されると説明されています。以上は私なりの理解ですが、正確には『生命とは何か(第2版)』金子邦彦著(2009年, 東京大学出版会)をお読みください。なお、座談会『ポストゲノム時代の生物学の方向性を探る』金子邦彦・古澤満・西川伸一・井川洋二(現代化学, 2002年6月号)をお読みいただければ理解の一助になると同時に、下記に述べます私の方法論との違いもご理解いただけると思います。
拙書『不均衡進化論』古澤満著(2010年, 筑摩選書5)にも書きましたように、上に紹介した最近の進化研究を含め、既存のすべての進化研究に欠けているのは、複製の分子機構をまったく考慮していない点です。 複製は生物の特質でありMatterには存在しません。複製なくしては個体の存続も集団も進化も成り立ちません。ここで強調したいのは、複製と複製の分子機構とは全く次元が違う問題であることの認識です。DNA複製装置の分子機構の含意を知ると、"変異はランダムに入るもの"という大前提そのものに疑問が出てきます。つまり、演繹法の落とし穴に気がつきます。
ところで、DNA複製にともなって起こる変異が進化に大きく貢献することはよく知られた事実です。DNA複製に伴う変異は主に塩基置換と連続する小数塩基の挿入・脱落です。しかし、放射線や化学物質がもたらす変異は、塩基置換の種類、塩基の脱落・挿入のスケール、塩基修飾の種類等の点で異なります。私の著書の中でも触れましたように、まず変異は不連続鎖にバイアスがかかって入ります。さらに、不連続鎖に入った変異もランダムではなくいわゆるホットスポットに入る傾向が強いようです。もし進化の過程で変異率が有意に上がり、不連続鎖で複製された側のDNAのある限られた領域にもっぱら変異が蓄積されるとすれば、まったく違った進化のスペクタクルが見えてくるはずです。それが証拠に、人為的に連続鎖の変異率を有意に上げる遺伝子操作をほどこすと、大腸菌と酵母の例では、あたかも進化が加速されたように、マジックのように厳しい環境に適応していきます。
多少の想い込みと筆意の高揚を許していただければ、進化を加速して進化の過程を目の当たりに観察することが可能になったと考えています。この進化の加速技術はあらゆる生物において原理的に応用可能だと信じています。現時点では、不連続鎖合成に関与しているであろうDNA複製酵素(polδ)の校正ドメインのアミノ酸置換による忠誠度の低下が進化促進の要因であると思っています(上述の『不均衡進化論』参照)。
進化研究の最終目的が進化に共通する原理を探すことにあって、そして既存の思考法の適用に本源的な限界があるとすれば、物理学の黎明期のように、進化学は"ひらめき"や"セレンディピティイ"(Serendipity=求めずして思わず発見する能力)が求められる魅力溢れる研究分野であり続けるでしょう。
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