「この頃の若い人は海外に出て行かなくなった」という記事をよく見かけます。私は学問の世界しか知りませんが、外国に留学するメリットとして次の三点が考えられます。1)世界一流の研究を学ぶことにより研究者としての向上に資する。2)海外の研究者や外国人の"考え方"を学び、将来の自分の研究に生かす。3)外国から日本を見ることによる、グローバルな視点の養成と日本の再発見を期待する。
私には若い頃のいわゆる留学の経験はありませんが、若い研究者が海外で研究する最大のメリットは上に挙げた二番目の項目にあると思っています。つい先日も、神戸ベイ・シェラトンホテルで、細胞分裂周期の先駆的研究でラスカー賞を受賞されたトロント大学の増井禎夫博士(35歳で米国留学、トロント大学教授を経てカナダに帰化)とお会いしたとき、海外留学とオリジナリティの高い研究とは何の関係もないということで意見が一致しました。
私の場合は、30歳半ばを過ぎてから主にヨーロッパに幾度となく出かけ、そのつど短期間の共同研究を行った経験があります。渡航先はドイツのゲッチンゲン市にあるマックス・プランク実験医学研究所(W・オステルターク研究室)が主で、大学の春休みや夏休みを利用して"サバティカル・マンス"をとって、連続して7,8回行きました。日英交換教授としてスコットランドのグラスゴー市のビートソン癌研究所で2カ月ほど過ごしたこともあります。ゲッチンゲンを根城に、オステルタークさんの紹介で数え切れないほど欧米の研究室を訪問し、セミナーを提供したり短期間の共同研究も行いました。
その間、ヨーロッパで多くの日本人研究者とお目にかかる機会があり、なかには個人的なお付き合いをさせていただいた方もおられます。外国を知るという意味で、私以上に海外生活を楽しんでおられた方もいましたが、総じて日本の研究者は夜遅くまで実験室にこもり、休日も研究所に出かけるのをよく見かけました。いきおい個人的お付き合いも学者間に限られているように見受けられました。その国の文化や、一般市民の生活を知るという点に関しては、すこし活動範囲が狭すぎるというのが率直な印象です。
さいわい私は理科系の人間には珍しく、空手を少しやっていましたので、すぐにドイツ人の学生で空手家ローランド・ベルク博士(当時、ゲッチンゲン大学医学部修士学生)とすぐに友人になりました。当時彼はすでに黒帯で非常に優れた空手家でした。私もときどき彼が教えていた大学の空手クラブのコーチにも行きました。彼の人柄と技の切れ味に引かれたので、糸東流空手道拳心館西宮道場に呼び、本場の空手を学ばせ、やがてウルツブルグ市で町道場を持つことになりました。彼は最初のうちは昇級・昇段試験をする資格を有していませんでしたので、私が渡独した折りに試験をしていました(因みに私は師範代で段を与える資格がありませんので、私の師匠である船橋進・山田和正両師範の代理として昇段試験を実施していました)。
わが国でもそうですが、空手でも習おうかという人のなかには、素行が良くない人物や家庭に問題を抱えている人、身体的・精神的ハンディキャップを持っている人などがいます。つまり、人間社会の縮図のような集団です。ドイツ人やドイツ社会を知るにはこれほどよい機会はまたとありません。空手の先生の命令は絶対的ですし、特に本場の日本からきた私は否応なしに尊敬される立場にあります。練習の後でジョッキを傾けたり、町で偶然会って立ち話をしたり、時には弟子のお宅におじゃましたこともありますが、そのとき彼らのありのままの姿を知ることができました。留学している日本人研究者が知ることのできない一般市民の生活や、ある意味での裏社会を垣間見ることができたのは私のかけがいのない財産だと思っています。
パリのモンマルトルの丘の裏側にあるカリブ革命の闘士たちのアジトで、ジャックナイフの鈍い光が射すテーブルをかこんでワイングラスを交わしたこともあります。昼間でも暗い部屋で輝く彼らの真っ白な目が今も目に浮かびます。また、ゲッチンゲン大学のことですが、空手の練習を見学に来ていた二人の若い米兵に軍隊流格闘技との他流試合を申し込まれたことがあります。幸い相手はギブアップし事なきをえました。これらの経験の含意は筆では表現し難い類のものですが、私の日常生活にも、また間接的には学問上の思考パターンにも確実に影響していると感じています。
この機会を利用して若い研究者の方々に一言申し上げたいことがあります。結論として、若いうちに海外に行くことをお薦めします。ただし、帰国してからも留学先でやっていた研究の延長のような仕事をずっと続けていくのはあまり賛成できません。帰りの飛行機の中で、昨日までの留学生活を顧みながら、自分自身がもし自由に研究できるポジションを得たときに、どのようなテーマで研究すべきであるかを真剣に考えていただきたいと思います。そうすれば留学は決してマイナスにはならないでしょう。そして、きっとオリジナリティの高い研究成果が貴方を待っているでしょう。
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