今回お話しするスポーツは、私にとっては、前回紹介した野球と空手とは異なるジャンルに入ります。いずれも40歳を過ぎてから始めたものであり、リフレッシュと体力維持が目的です。とはいっても、のめりこむことには変わりなく、少しでも上達していると感じている間はこれからも続けていくつもりです。
本格的にスキーを始めたのは42歳だったと記憶しています。大阪市大の友人たちはすでにJSAの一級を持っていたり、元スキー部員であったり(足立英斉、小松宏至、児玉隆夫、唐沢力、小谷穣一の諸氏)、中には、北大の山岳部出身で南極越冬隊で自設の"スキー学校"の校長をしていだ吉田勝氏というつわものもおりました。上越の岩原スキー場に山小屋を持っていた元国体選手で大学の同級生、茶木洋二君にも大変お世話になりました。
皆さんには親切に教えていただきましたが、始めたのが遅かったせいか、なにせ滑り下りる行為そのものが怖くてずいぶん手間をかけました。やがて、ゲレンデで自分より上手い人を見つけ、その跡を追いかける方法を考えつき、他人の手を煩わすことなく上達することができました。大阪工大スキー部OBの杠直樹さんや梶谷昌弘さんはじめ現役の部員の方には、基本とポールのくぐり方を一から教えていただきました。また、上智大スキー同好会OBの吉野周さんや諏訪信幸さんたちからは基礎を、志賀高原でパトロールの経験を持つ野村護氏や元レーサーの余川(松川)あずささん(旧第一製薬)には急速ターンを学びました。小谷氏が務められていた大阪女子大の岩岳や横手山スキースクールには、最上級クラスの生徒の"お守役"として毎年参加させていただき、楽しい思い出となりました。大阪府大との併合に伴ってスキースクールもなくなりました。
一応競技の要領を覚えたので、数年前まで、おもに関温泉の神奈山スキー選手権大会の大回転競技に「古澤工務店」という架空の会社名で毎年エントリーしていました。スタート前のあの緊張感がたまりません。現役の選手は出場できないルールで、年齢別にクラス分けされていたため、私のようなものでも間違って入賞することがあり、メダルや賞状をもらうと子供のように嬉しいものでした。今でも大切にとってあります。現在も、旧第一製薬テニス部の鈴木恭介さんがリーダーのグループに入り、毎年2月に田沢湖へ滑りに行きますし、大阪市大の小宮透研究室のラボ・スキー(五竜)など、年3、4回は滑っています。鈴木氏・小宮ご夫妻はスキーとテニスのプライベートコーチ兼、飲み友達の関係です。信じるかどうかは別にして、「去年よりまた上手くなった」と言われる度に、内心有頂天になっています。
ヨットは旧第一製薬の若きヨットマンであった高橋雅行氏に薦められ、1991年にヤマハの31フィートのクルーザー(Y-31EX)を買い求め、Beagle II号と名付けました(見出しの写真:ダーウィンが探検のために乗ったイギリスの軍艦Beagleに因んで)。母港は千葉県木更津港(現在は東京湾マリーナ。オーナー高橋氏)で、魚探・GPS・無線機を積み込み、半ば漁船と化していました。漁師町育ちなので、左手で櫓を漕ぎ右手で魚を釣ることもできるぐらい海と舟の操作にはなれていましたので、帆の扱いはすぐにマスターしました。実をいいますと、小学生時代には漁師か船長になろうと思っていました。60にしてついに念願の船長(法律上の呼称も"船長")になれたわけです。横からの順風に上手く乗ったときの帆走ほど爽快なものはありません。
15年間のBeagle IIの船長として学んだことは、"中止する勇気"と "決断力"の大切さです。研究と似たところがあります。しかし研究と違って、海では一つの判断ミスが人の命にかかわります。レジャーボートや高齢者の山登りの遭難のニュースを聞くたびに、リーダーの判断の甘さが頭をよぎります。
最後にテニスですが、テニス歴はもう25年を越えます。会社のテニス部に入部したのは50代前半でした。われわれの学生時代は、テニスをするやつは女々しいという考え方が浸透していましたので、それまではラケットを握った経験はありません。テニス部員といっても、練習試合が終わってからのビールだけが楽しみなダメ部員でした。入部した理由は、若手部員と仲良くなりサイエンスの話をする機会をつくりたかったからです。今でもその関係は続いています。なかでも、鈴木恭介さん、合田竜弥さん、広田豊彦さんの個人レッスンのおかげで少しは上達したと感じています。
3年前に退社し西宮に居を移してから間もなく、ひどい鬱状態に陥り悶々とした日を過ごし、研究もまったく手につかない状態が約1年続きました。2年前のある日、所用で家に来られた昔の空手の友人、澤田孝道氏からテニスを誘われ、近くにある名門夙川ラケット倶楽部のスクールに通い始めました。それ以来、体調は急速に回復し、現在は毎水曜日に練習と仲間うちの試合を2時間楽しんでいます。一番未熟者ですが、コーチの指導やテニス仲間、それに小宮ご夫妻の適格なアドバイスによって、ここにきて、少しダブルスが分かってきたような気がしています。澤田さんはじめ、西宮のテニス仲間の皆さまのおかげで、鬱と戦いながら、拙書『不均衡進化論』(筑摩選書)を昨年10月に遅滞なく出版することができました。本当に感謝しています。
これで私のスポーツ遍歴のお話は終わります。いま振り返ってみますと、自分の研究、というよりは人生それ自体にスポーツが必須の存在であったことがわかります。むしろ私のなかでは、研究活動とスポーツは相互依存・渾然一体の関係にあったと表現したほうがよいかも知れません。ほとんどのスポーツはかなり年をとってから始めたものですし、不均衡進化論のきっかけをつかんだのが、普通の人ならそろそろ定年のことを考え始める56歳のときでした。つまり、私の場合、研究とスポーツ(武道)との間に何か生理的な因果関係が存在するようにも思えます。少なくとも、身長の伸び方をはじめ、研究・スポーツともに極端に晩生(おくて)の人間だということだけは確かなようです。
問題はこれから先をどうするかです。もし、上に述べた文脈が正しいとしますと、現在嵌(は)まっているスポーツが上達しなくなったときには、サイエンスも引きどきだと考えられます。多分、私のことですから、もっと楽なスポーツ(ゲートボールかな?)を探し出すかもしれませんが。
科学することをやめるタイミングは自分ではきっと判断がつかないでしょうから、信用のおける国内外の数人の研究者に、"忌憚のない意見"を言っていただくよう以前から頼んでいます。
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