ちょうど50年前になりますが、通勤電車(旧国鉄:神戸―大阪間)内での出来事でした。向かい合った4人がけの席の私の前の席に二人の上品な老紳士が途中から乗って来られました。70歳前後と拝察しました。しばらくして私の前に座った紳士が、「この方をどなただかご存知ですか?」と窓際の連れの方を指して尋ねられました。あまりに唐突で、少し失礼だと思いましたので黙っていました。この人があの有名なテニスの清水選手であり、ご自分との関係などお話になりました。40歳も年下の私が返事しないのも礼を失すると思い、適当にあいづちを打っていました。
清水善造選手の名は私たちの年代で小学校で国語を習った方なら誰でも知っています。1920年のウインブルドン・テニス大会で、前年のチャンピオンに対する挑戦者を決める決勝戦での出来事です。米国のチルデン選手が清水選手の打ったコーナーへの深いドライヴを打ち返した時に転倒しました。それを見た清水選手は、ネット際に返ってきた緩い球を起き上ったチルデン選手の近くに「美しい球」で打ち返したのです。相手は難なくこの球を打ち返し清水選手の横を抜きました。このプレーに観客は熱狂的なスタンディングオベーションを送ったそうです。状況が分からないまま試合を続行しようとした清水選手に、チルデン選手はラケットで観客席を指し試合の中断をうながしました。清水選手は観客に軽く返礼されたそうです。この美談は、スポーツマン精神や武士道精神の高揚、国威発揚の格好の材料として戦前の文部省により国定教科書を通して初等教育に利用されました。
話を車内に戻しましょう。その間、清水氏は時々うなずきながら話を聞いておられました。私は少々うんざりしていましたし、自慢話は清水氏にとってもマイナスだと思ったので、「その話はよしましょう」と口まで出かけたのですが、ついに言わずじまいに終わりました。帰宅してから、もしあのお二人が、あのようなことをいつも車内でやっておられるとしたらみっともない話だと考えたり、いや、お年寄りが昔を懐かしんでおられ、老化のために少々感覚がずれておられるのでは、などと思ったりしました。実を言いますと、それ以来清水選手への尊敬の念は完全に失せていました。
ところがつい一週間ほど前のことですが、ABCラジオの「おはようパーソナリティ道上洋三です」の番組で、錦織選手の活躍とのからみで清水選手の「美談」が紹介されました。それで清水選手のことを少し調べて見ることにしました。意外や意外、「美談」は大いなる誤解であることが判明しました。私は以前から、対戦相手が転倒したときに、わざと打ちやすい球を出すことが本当にスポーツマン精神だろうか、という疑問を持っていました。チルデン選手がコートの隅で転倒し、すぐに起き上ったので、コートのセンターに走って戻ると予測した清水選手は、とっさに相手の逆を突いて同じサイドに打ち返したのが真相です。球が緩かったのは「自分の打球はもともと緩いから」と清水選手自身が述べておられます。これで私は全て納得しました。どんなスポーツでも、相手が転ぼうが、ひっくり返ろうが、ベストを尽くすことが相手をリスペクトしている証であり、真のスポーツマン精神だと信じるからです。清水氏は想像以上に完成された人格の持ち主であったことも知りました。礼儀正しく、フェアーで、いつも微笑み、しかも小柄ながら強いので、欧米では大変な人気があったようです(群馬県立高崎高等学校創立百周年記念誌『翠巒の群像』参照)。
さて、再び車内に戻しましょう。私の前の席の紳士は、自分の知り合いが超有名人であることを他人に知らせたくてうずうずされていたのでしょう。この心情はよく分かります。バーやパーティなどの席では私もそういう行動に出ることがあります。しかし、公共の場所である車内で、しかも何のまえぶれもなくこの手の話を切り出すのはタブーです。これは話し相手である私に対しても、当の清水氏に対しても礼を失しています。いまになって想像しますに、清水氏はやれやれまた始まったかと思われたのでしょうが、多分、友人に対するご遠慮から、会話を止めることを躊躇されたのだと思います。きっとそうに違いありません。
あえて申し上げれば、清水氏には会話を止めていただきたかったというのが私の正直な気持ちです。一方、もし、お友達が私に話しかけられなかったとしたら、おそらく氏にお会いする機会がなかったはずです。それを考えると少し複雑な気持ちです。
会話によらず、人間社会で何よりも大切なのは相手をリスペクトすることであることを再確認しました。戦後になってこの「美談」は、"日本人の善良性"のPRの手段として、形を変えて教科書に再登場することになります。当時の文部省の事実確認の不作為(それとも確信犯?)と、ご都合主義的な解釈は、清水選手はもとよりわれわれ日本国民をリスペクトしていなかった証拠だと思います。 |