明けましておめでとうございます。しばらくコラムをご無沙汰していました。論文投稿が重なってなかなか時間がとれなかったのがその理由です。テニスとスキーは相変わらず続けていますし、毎日欠かさずお酒も嗜んでいます。
さて、わが国が太平洋戦争に敗れて以来、英語が幅をきかすようになりました。社会のグローバル化に伴って、会社の大小に関係なく英語、特に英会話の習得が必須となってきています。科学の世界も例外ではありません。国内の大きな学会では、発表は英語に限られている例も少なくありませんし、この流れは止めようもないでしょう。投稿論文は英語が主流で、オープンアクセスの電子ジャーナルの出現とも重なって、研究成果の地球的共有化は急速に進んでいます。しかし、この流れに乗ってこのまま突き進んでいって日本の科学の将来は本当に大丈夫なのでしょうか。この点に関して、日頃感じていることを二つ述べたいと思います。
第一はネイティヴ(母国語)の問題です。日本人同士でも、研究内容の微妙なニュアンスを正しく理解し、相手に伝えることは至難の業であることは日常よく経験するところです。ましてや、私のように英語の語彙の少ない者が、外国の科学者との会話で、英語を使って意思の疎通が完璧に図れるとはとても思えません。私の経験では、英語で議論をすると、何か分かったような気になるのは確かですし、若干の緊張と高揚の故に、理解の仕方がどこか短絡的になり、“美化”されているように思えてなりません。勿論、私の英語力の稚拙さにその原因の大半があることは自覚していますが、所詮、ネイティヴには勝てません。何故って、畢竟(ひっきょう)、言語は学校で学ぶものではないからです。外国人と少人数で議論するときは、必ず絵を描いて、或は描いてもらって、語学力の不足を補うことにしています。話の内容が抽象的なほどこの手法は有効です。“不均衡進化理論”などいい例で、描画なくして相互理解はほとんど不可能です。
第二はもっと根源的な問題です。それは近代科学の発祥とその歴史に関わる深遠な問題を含んでいます。日本に生まれた以上、私たちは否応なしに日本語の中で育ちます。言葉は数学の一部である記号論理学と同じでロジックからなり立っています。言葉は人間の脳の思考パターンの形成に大きな影響を与えます。日本語が溢れている環境で育った私たちは、アプリオリに日本語のロジックでものを考えるようになっています。これは遺伝に匹敵するほど不可避な出来事です。東洋人は統括的に、西欧人は分析的にものを捉える傾向がると言われていますが、これも元を正せば、言語の差に行き着くと思います。
残念なことに(幸いなことにと言うべきかも知れませんが)、私たちが学校で教わる数学・物理・化学・生物などは、ほとんど全てギリシャ時代から始まる西洋のロジックの下で発展してきたものです。西洋的ロジックの力は、数学や物理学の素晴らしい成功の歴史を見るだけで十分納得できます。器用で精勤な日本人は、先人が輸入した科学をよく咀嚼し、素晴らしい研究を成し遂げて来たことは誰もが認めることでしょう。
しかしながら、そろそろ科学の本質を再確認する時代がやって来たように思います。今をときめく物理学も生命科学も、大きな壁の前に突き当たっているように見えるのは私だけでしょうか? ブラックマターやブラックエネルギーの存在、ゲノム情報と生物の形の関係、大進化の機構などが“大きな壁”の例です。ここに来て、西洋的思考方法の限界が垣間見えてきたように思えてなりません。この壁を乗り越えるためには、思考方法そのものを根本的に見直す必要があります。日本人の感性や思考方法は西欧人のそれと水と油ほどの違いがあります、これに注目しない手はありません。この辺で、二千有余年の西洋的思考法の鎧をかなぐり捨てて、恣意的に日本語でサイエンスを考える勇気ある若武者が現れることを期待しています。
人間は頭の中で会話用語を使ってものを考える動物です。繰り返しになりますが、言語は人間の思考パターンを決定づける強力な力を秘めています。日本人の東洋的な感性と精勤さをフルに活用すれば、真にエポックメイキングな研究への道が開けると信じています。「日本語で考え、英語で発表する」と言う一見矛盾する行為が、眼前の巨大な壁をブレークスルーするに違いありません。
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