もう30年以上も前になりますが、私より10歳くらい年下でNという知人がいました。彼は筋ジストロフィーで寝たきりでしたが、独立して生活し、知識も豊かで株の売り買いもするインテリゲンチャでした。ある日、彼の部屋を訪ねたときのことです。知りあってもう何カ月にもなるから、二人の間には何のわだかまりもないという意味のことを話したところ、「古澤さん、目の位置を考えたことありますか?」という返事が返ってきました。何のことか分からず、きょとんとしていますと、彼は続けました。自分はいつも横になっているから健常者の目の位置は常に上にあり、この状況は強い精神的圧力になると言うのです。
そう言えば、野生動物がヒトを恐れるのは、ヒトの両眼が前方を向いていることと、目の位置が高いからだとどこかの本で読んだ記憶があります。相手を見上げる位置にいると、威圧され正常な思考の働きが抑えられるのでしょう。そう言えば、ロダンの彫刻の「考える人」もうつむいて座っています。きっとヒトと言う生物は、上向きではうまく思考が働かない生き物なのでしょう。生理学的な理由はわかりませんが、私の場合、忘れた事を想い出すときには上を、考え込むときは下を向いているような気がします。皆さまはいかがでしょうか?
もう少しこの話を広げますと、映画でみる中世の暴君や独裁的為政者も、演説するときには決まって高い場所から群衆を見下ろす位置に立っています。かのアドルフ・ヒトラーもそうでした。民衆に考える余裕を与えず洗脳するためには、下を向かしてはならないということを経験的に知っていたのでしょう。そう考えますと、大学の階段教室の構造はまったく逆になっていて、教授の演壇はいちばん低い位置にあり、学生は常に下を向いて講義を聴くようになっています。国会の議場もそうです。代議士の席は演説者の席より上にあります。しかし、権威が必要な裁判所では、裁判官の席はいちばん上になっています。
話が変わりますが、敗戦時に日本に駐留のためにやってきた米兵のスマートで頑強な体躯と背の高さ、それに青い目には理屈抜きに威圧感を感じました。当時中学2年生であった私には、言葉の問題もあって、街で米兵から話かけられたらおどおどするだけでした。成人してから研究者として欧米人と話す機会が多くなり、今では多くの友人もいますが、慣れるのに努力と時間を要しました。
N氏に会うずっと前、1970年(大阪万博)の頃に、1920年代に英国に留学していた父の先生(A.V. Hill)の紹介で、ケンブリッジからSteve Boydと言う若者が我が家に訪ねてきました。しばらくして、その友人のTim Horderも関西にやってきたので、この機会に英語に慣れようと積極的に彼らと付き合いました。両方とも180cmをはるかに超える長身ですので、私が机に腰をかけ、彼らが椅子に座って話すというスタイルが自然に身に着きました。このようにして、知らず知らずのうちに外人コンプレックスを克服することができました。これがN氏が指摘したところの、目線の高さを同じくすることの重要さを現わしているのでしょう。それ以来、背の高い相手と学問の討論をするときなどは、机に腰かけるというスタイルが自然に身についてしまいました。因みに、Timはオックスフォード大の人類解剖学教室の教授として、Steveは阪大で英語の教鞭をとりながら、『英和活用大辞典』(研究社)の編集者の一人として今も活躍しています。なお、Steveのお兄さんは、英国大使として日本に来られたことがあり、何度も大使館でご家族と一緒に食事をご馳走になったことがあります。
今になって思うのですが、仮に、彼らの平均身長が160pにも満たないとしたら、日本人が持つ欧米人に対するコンプレックスの大部分はなかったと確信します。もしかすると、目の高さの差が当時の日本の科学の発展にかなりの影響を及ぼしたと考えるのは穿ち過ぎでしょうか?臆せずに欧米人と話せるようになれたのは、TimとSteveのおかげです。
残念ですがN氏は上記の会話ののちに、まもなく他界されました。物を考える視点の重要さを、身をもって教えてくれたN氏のことを忘れることができません。
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