先のコラムで障害者であるN氏のことを書きましたが、今回はS氏の話です。私が大阪市立大学に勤めていた頃で30年以上も前のことです。彼は当時、二十歳代半ばだったと思います。脳性マヒのS氏はタイプライターを足で打ったり、電動車椅子の運転は足を使ってできますが、四六時中介護が必要です。それでも自立生活をしておられました。介護は無償で大学生が中心に交代でやっていました。一時私も少し手伝ったことがあります。生活費は一部公費だったと思いますが、不足分は寄付やカンパに頼っていたようです。
S氏は非常に感性の鋭い人で、とても勉強家でした。政治・経済はもちろんのこと、私の研究テーマをネタに科学談義をしたり、恋愛の相談を受けたり、酒盃もよく交わしました。N氏の指摘にしたがって、目線の高さを合わせるように努力したのはもちろんのことです。
ある日、彼は唐突に私にたずねました。「世の中でだれがいちばん差別者だと思う?」。この種の質問は障害者との間の会話としては微妙なニュアンスを含んでいますので、慎重に考えて答えました。「そうやな、政治家、世間一般の人たち、近所の人、友達、学校の先生、お医者さん、お店の人……」私が羅列した答えはみな違っていました。みなさんは彼が何と答えたと思われますか?「母親」。この答えを聞いたときに、えっ!まさか?と本当に虚を突かれました。その理由は、障害者を子に持つ母親は愛情が高じて不憫となり、自分の世間体も手伝って、子供を人眼にさらさないようにするからです。自分を家の中に閉じ込めようとする母親こそ最大の差別者だと言う訳です。私には想像も付きませんでした。
それにしても、彼は何故この質問を私にしたのでしょう? きっと、大学教員の私に物の見方について伝えたい事があったのではないかと想像しています。この会話は、家庭教育を含めた教育一般の難しさを想い知らされます。と同時に、視点が違えばかくも発想が異なるものかと言う点で、研究者にとって、現象を理解するときの"切り口"の大切さを的確に指摘するものと思っています。
このことがあってから、私は自ら手を挙げて、大学の障害者委員会のメンバーになりました。彼に大阪市立大学を受験してほしかったからです。大学紛争がやっと収まりかけ、大学当局は学生や若手教員の要求を採り入れて、"解放大学""批判大学"を標榜して改革を志向していました。私たち若手教員も選挙によって評議委員に選ばれ、大学運営に直接参加していました。このように一見民主的な大学当局が、この問題にどう対処するかをこの目で確かめてみたかったのです。当時のわが大学に、手の運動と発声に強い障害がある学生を受験させ、受け入れるだけの準備と勇気があったかどうか疑わしいものです。この考えをS氏に話しましたところ、自分には学力が足りないという理由で丁寧に断られました。彼の日頃の言動から判断して、私に迷惑がかかることを恐れたのが断った理由の一つだと感じました。本当は、彼にとっては大学の改革など感知しなかったのかも知れません。
もう一つ、S氏のエピソードをお話します。ある日、彼はぽつんとつぶやきました。「障害者に便利なものは、健常者にとっても便利なんや。健常者もずいぶん不自由な目を強いられているんだよな」、なるほど言い得て妙です。70歳半ばを過ぎますと、その日の体調によっては街を歩くのがつらいときがあります。とくに、歩道橋や地下鉄日比谷駅のように、エスカレーターが整備されていない長い階段の前では途方にくれます。公衆トイレもそうです。入口のいちばん手前にある障害者用の金属パイプで囲まれている男子用の小用便器は非常に便利です。手荷物を置いても前にすべり落ちることはありませんし、なによりもお酒を飲んで少しふらついているときなどは、この丈夫なパイプは非常に役に立ちます。つまり、都市のバリアー・フリー構造を含めて、彼の指摘に反する例外は今のころ見当たりません。障害者に便利な構造に改造することによって、普段の生活がより快適になる可能性がまだまだ残されていることになります。もしかすると新事業につながるかも分かりません。
S氏との出会いは、いろいろな意味で人生最大級のインパクトでした。第8回コラムでお話しました、私に訪れた研究上の転機も、彼との出会いとはあながち無関係ではなかったと思っています。
残念なことですが、S氏も40歳前半にして、鮮烈な一陣の風を残して私の前から去っていきました。
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