私が卒業した当時の金沢大学理学部にはまだ大学院がなかったので、研究生活を続けるために大阪市大理学部修士課程に入学し、生物学科・発生研究室(朝山新一教授)の院生となったのは1957年(25歳)の春でした。初めて研究室に挨拶に行った日が、ちょうど定例のセミナーの日にあたっていました。その席で私が発した不用意な言葉が、その後の私の研究者としての運命を決めることになってしまいました。
研究室のスタッフの方の論文紹介と討論が終わったところで、朝山先生からセミナーの感想を聞かれました。そのとき紹介された海外の研究室の論文は、学部を卒業したばかりの私にとってはあまりにも専門的だったので、その内容について質問をすることは不可能でした。しかし、何か言わねばと思ってセミナー室の書棚に目をやると、ネイチャー、サイエンスを始め、当時の動物学や発生学に関する有名な海外の雑誌が目に入りました。「この研究室の業績はどの雑誌に発表されているのですか?」と尋ねました。私はごく当たり前の、さし障りのない質問をしたと思っていました。ところが意に反して、シーンと静まりかえり答えは返ってきませんでした。非常に気まずい空気がその場に流れたのは私にもすぐにわかりました。歓迎パーティのレストランに行く途中で、当時発生研究室の助手(助教)であった一つ年上の故小谷穣一氏(第13回コラムに紹介した先輩。両生類始原生殖細胞分化の研究で著名。のち、大阪女子大教授)が、「古澤君、ええ質問するなあ。そやけど、ほんま、ええ度胸してるわ」と言われ、なんのことかわからずただぽかんとしていました。歩きながら小谷さんからその理由を聞かされたときには顔に血がのぼりました。
敗戦の影響がまだ色濃く残る当時の日本で、少なくとも発生学の分野では国際的な有名雑誌に論文を掲載することなどは稀有のできごとだったのです。わが家では父がロンドンのマクミラン社から直接ネイチャー誌をとって読み捨てていましたので、ネイチャーを科学週刊誌ぐらいにしか思っていませんでした。したがって、ごく自然に口をついて出た質問だったのですが、知らぬが仏とはこのことです。きっと研究室の方々に、「生意気で、難儀な奴が来よったな」と思われたに違いありません。
スタートから大つまずきをしてしまった私ですが、そこで腹をくくって考えた結論は、「よーし、もうこうなったら絶対ネイチャーに出すぞ。そうでないと男が廃る(すたる)!」でした。やがて修士課程を中退し、同じ研究室の助手になりました。 日頃から、科学するにはコンセプトが大切であると主張していましたので、動機はまことに不純ですが、考え方によってはこれほどはっきりしたコンセプトはないと言えないこともありません。それからというものは、新4回生や院生が研究室に入ってくるたびに、ネイチャー向きの、まったく新しいテーマ−を考えるのですから大変です。そこでとりあえず、ネイチャー誌のレフェリーになったつもりで、彼らが好みそうで実現性の高い研究テーマを探すという、まことに本末転倒した手法を編み出しました。幸か不幸か、約5割の確率で計5報の論文をネイチャーに載せることができました。 勿論、学生にはこの間の事情は伝えていません。
ここで、このようなテーマの出し方を余儀なくされたもう一つの理由を説明しておく必要があります。拙書『不均衡進化論』(筑摩選書2010年)にも書きましたように、また、本コラムの見出しにもありますように、少年のころからラマルクの進化論に興味があり、"進化の加速"を夢見ていました。しかし、このような"やばい"テーマを学生に軽々しく与えるわけにはいきません。短期間で論文になるようなデーターが出る確率は限りなくゼロに近いからです。
いまこうしてふり返ってみますと、上述のようなテーマ−の出し方は、はたして学生にとってプラスになったかどうかはなはだ疑問です。もしかすると、かえって学生をスポイルした可能性すらあります。すなわち、テーマの意味するところを熟考するチャンスを学生に与えていない点と、学生によっては、自分の能力を履き違えてしまう危険性があったことです。とくに若い研究者にとって一番大切なことは、自然科学の歴史の流れの中での自分の立ち位置をしっかりと見据えることです。この点から言っても、私のテーマの出し方は不適切の誹(そし)りは免れないでしょう。このような失敗の経験から、「どのような質問に対しても、答えはより慎重でなくてはならない」ということを学びました。まことに遅きに失した感があります。
結局、50歳にして大学を去り、旧第一製薬(現第一三共)の中央研究所に新しくできた分子生物研究室の室長として移ることになりました。私が選ばれた理由の一つが、ネイチャーに載った論文の"数"だったことを後で知り、人生なにが幸いするか分からないものだと思いました。
大学を早期退職した理由はいくつかありますが、いまここで敢えて一つ挙げますと、進化加速の研究を残りの人生で試してみたかったからです。読者の皆さんは、大学でもできない基礎研究をどうして営利を追求する企業でできるのか、という疑問をお持ちだと思います。私としましては、一度教育の場からはなれて、別の環境でトライしてみたいという人生最大の賭けに出たのです。
企業に移って間もなく、図らずも新技術事業団(現科学技術振興機構)・創造科学(ERATO)の「古澤発生遺伝子プロジェクト」(1987〜1992)の総括責任者に任命されました。年間3億円、5年間で計15億円という当時としては巨大なプロジェクトです。会社の経営陣のご理解やスタッフのみなさんの協力もあって、週末にはゆったりと進化のことを考える時間と場所を与えられたことは本当に幸運というほかはありませんでした。その後の進化研究の経緯は第1〜8回のコラムに詳しく書きましたのでお読みいただければ幸いです。
なお現在も、「続・不均衡進化懇談会」という名の会合をもうけ、いろいろな分野の若手研究者が東京に集まり、活発な議論を続けています。
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