第1回のコラムでは、進化の速度は一定ではなく、生物は進化を速めたり遅らせたりする機構を持っている可能性があることを説明しました。今回は、進化と時間の関係を別の角度からもう少し踏み込んで考えてみたいと思います。 ここでは次の2つの質問をします。 1)
進化は時間の関数か? 2) 進化は逆進させることができるか? このように、私は禅問答のような自問自答を繰り返して時を過ごすのが大好きです。 時には、対象が宇宙であったり、自分がプロ野球の選手であると仮定したり、ここ10年来は専ら進化に凝っています。 一睡もせずに夜を過ごすことも稀ではありません。 このような性癖は、時にはコンセプト作りにプラスすることもあるようです。
【進化は時間の関数ではない?】
多くの人は、進化には悠久の時間が必要であり、何億年もの時間が全てを解決すると、何となく思っています。(つい最近まで、進化は生物学の聖域であると言われていた所以です。) この考え方には何の根拠もないことは、前回のコラムを読まれた読者にはご理解頂いていると思います。 ここで質問の表現を変えまして、「進化は時間の関数である」という文章について考えることにしましょう。 このことに疑問を持たれる読者は果たして何人おられるでしょうか? 多分、大多数の読者は疑問を持たれなかったと想像します。 それは、あえて断る必要もないほど“自明の理”だからなのでしょうか? それとも、単に問題意識がないからなのでしょうか?
進化を方程式で表現することができるかどうかは別にして、「進化は時間の関数である」という言葉を数学的に文字通りに表現すれば、任意の時間tにおいて、進化を表す関数fの値は一義的に決まるということになります。 現在、進化の問題を考える上で広く受け入れられている集団遺伝学(進化遺伝学)では、集団内に対立する遺伝子の存在頻度の推移を考えることで進化(この場合は有利な遺伝子の集団内での広がり)の問題について考えようとしています。 従いまして、進化を時間の関数として捉えようとしているように見えます。 しかしながら、集団遺伝学の手法では進化を引き起こす主要因である新たな突然変異の発生について記述するには限界があります。 このことは、集団遺伝学的アプローチの前提として、新たな突然変異がゲノム上に完全にランダムに発生していると考えていることと深い関わりがあるのではないかと思います。
進化は個体に起こる変異(その原因は突然変異)が根源的因子であり、もし、その変異の入るメカニズムに法則性があるとしますと、その法則性こそが進化の方程式の基本部分を構成すべきであると我々は考えています。 つまり、進化を化石記録や現存生物などに見られる個体の有利な表現型(例えば、キリンの首が長いというような外見上の特徴)の変化そのものと捉えるならば、進化は時間とはなんら関係のない別の原理に従って進むものであると言えます。 何故なら、進化がいつ起こるかは誰も予測できない事なのですから。 記者の質問に対し、「ある日突然、種全体がパッと変わるんだよなー」と表現された今西錦司氏の言葉を思い出すのは私だけではないでしょう(出典失念)。 氏の表現の中には時間という概念が全く入っていません。 私自身も、講演のあとで、「古澤さんの進化論は今西進化論と似ていますね」と言われた記憶があります(1996年、第482回筑波研究フォーラム)。 もう少し具体的に言いますと、甚だ直感的ではありますが、どうやら進化の本質は種と種の“分岐点”の実体をどう表現するかに懸かっているようです。 現在私は、DNAの複製装置の構造と、半保存的に複製するDNAの系統・系譜のシステムの中に、この謎を解く鍵が潜んでいると考えています。
この項は、これまでの多くの方々との討論を踏まえて、この原稿を書いています現時点での私なりの考えをまとめたものです。 日頃、広く進化の問題をご討論いただいています不均衡進化懇談会のメンバーの方々(特に、ネオ・モルガン研究所:青木和博、日立製作所:合田徳夫・門脇好尚、日立中研:恵木正史、阪大:八木健・内村有邦、慶応大:松原嘉哉、東大:笠原堅、JST:野田正彦の諸氏)に深く感謝いたします。 当然、メンバーの意見が一致している訳ではありませんので、意に沿わない部分が多々あることと思いますが、どうかお許しください。
【進化は逆進させることができない? 或いは、ジュラシック・パークは本当か?】
さて、ダーウィン進化論の結論を一言で表しますと、「サルとヒトは祖先を同じくする」となります。 これがその当時のキリスト教のドグマと相容れず、大きな議論を巻き起こしました。 ここでは話を面白くするために、「恐竜とワニは祖先を同じくする」と言い換えることにしましょう。 ここで大胆な仮定をします。 進化の過程で、恐竜とワニの分岐点にあった“原始爬虫類”の全ゲノムの塩基配列が分かっていたとします。 さらにありそうもないことですが、この原始爬虫類から分岐・進化してワニになるまでの塩基配列レベルの変異の全過程が時系列的にデーターベースに入っていたと仮定します。 恐竜の場合も同様に、原始爬虫類から分岐した後の進化過程の完璧なゲノムの時系列データーが揃っていたとします。 ここで、技術的には不可能ではありますが、理屈では可能な一つの机上実験を試みてみましょう。 現存のワニの受精卵から出発して、遺伝子操作技術を駆使して、過去の進化の過程で入った変異の順番(変異の歴史)を正確に逆に辿って変異を入れていったとします。 質問はいたって簡単です。 果たして我々は、問題の“原始爬虫類”と全く同じ生物を再び創製することができるでしょうか? 同様に、恐竜から出発してもまったく同じ原始生物にたどり着くことができるでしょうか?
日常生活で見る生き物から判断して、進化は戻らないと思っている人は多いと思います。 例えば、トキなどの絶滅危惧種が多く存在するのを見ましても、生物というものは、一旦進化し始めますと多かれ少なかれ袋小路に入って、後戻りできないように見受けられます。 問答の答えは、皆様の勘が正しく、“後戻りしない”がどうも正解のようです。 その理由を次に説明します。
1953年にDNAが発見されて以来、分子生物学が爆発的に発展し、現在ではヒトをはじめ多くの生物種で全ゲノム塩基配列が解読されています。 このように、ゲノムを中心にして学問が発達してきました結果、生物の生理・発生・形態、果ては行動や性格に至るまで、ゲノムや遺伝子が一方的に支配しているという考えが優勢になってきました。 勿論、DNAの情報なしには、これら生き物の特徴を造り出すことができないのは言うまでもありません。 ところで、分子生物を研究している何人かの方に、上述の机上実験の結果を予測してもらったところ、過半数の人々から「“始原爬虫類”は創製できる」という答えが返ってきました。 何故でしょう? 恐らく、以下に述べますように、情報理論の視点からの考察が欠けているからだと思われます。
DNA(ゲノム)はある種の情報であることには異存はないでしょう。 そうであれば、生物は情報理論の法則にも支配されるはずです。 その法則の一つに、「情報が同じでも、初期値が違えば結果は異なる」というものがあります。 ここでいう情報とはゲノムの塩基配列であり(遺伝子はその一部)、初期値とはゲノムを除く生物を作っている全ての構成物、即ち、生物の実体です(例えば、細胞であり、組織であり、個体です)。 ワニの卵に遺伝子操作を加えて、現存するワニの一歩手前の昔の“ワニ”のゲノムと同じゲノムと差し替えたとしますと、まさしく遺伝情報は直近の先祖のそれになっていますが、初期値(卵の細胞質等)はこの場合現存するワニなのです。 この初期値が術後の“ワニ”のDNAと強い相互作用を起こして、この新しい生物は多分、予想よりもワニに引っ張られた中間の形質になると思います。 過去の進化の過程で変異が入った各段階を遡って同様の手術を積み重ねていく訳ですが、手術の度に違った初期値の影響を受けるので、最後に“始原爬虫類”の姿に戻るようには思えません。 同じように、恐竜から出発したときも、きっとこれとは別の“始原爬虫類様生物”になってしまうでしょう。
映画にもなった有名な小説 「ジュラシック・パーク」(M. クライトン著)によれば、琥珀の中にジュラ紀の恐竜たちの血を吸った吸血性昆虫が閉じ込められていて、これらの昆虫から恐竜の血球を採集し、ゲノムDNAを抽出する。 かたや、現存するワニの受精卵を準備し、そのゲノムの替わりに恐竜のゲノムを入れ発生させて恐竜を再創製するという戦略です。 (小説では、操作上の都合で、恐竜のゲノムの中には一部現存の爬虫類やカエルのDNAが含まれていますが、議論を進めていく上では問題はありません。) 吸血昆虫が吸った恐竜の種類によって、思うがままの恐竜が得られるという訳です。 体細胞の核を受精卵のそれと交換することにより、クローン・ヒツジやウシを作ることに成功していますから、原理的には可能と思われますが、大きな問題があります。 一つは、ワニの祖先は“始原爬虫類”であって、恐竜ではないということ(恐竜からワニが進化したのではないということ)。 他は、このように進化の歴史を無視して、しかも一足飛びに恐竜のゲノムをワニの卵に移植した点です。 ワニの細胞質という、恐竜のゲノムにとって全く異質の初期値が強く働いて、到底同じ姿の恐竜ができるとは思えません。 万が一生まれたとしても、ワニと恐竜の中間みたいな生物になるでしょう。 それより、この卵はうまく発生せずに確実に途中で死んでしまうでしょう。 理由は、昔、両生類であるイモリとカエルの間で受精卵の核を入れ替えた研究者がいましたが、発生せずに途中ですぐに死んでしまいました。 ゲノムと細胞質の関係を喩え話で説明しますと、日銀総裁が金融問題に対して何か具体的なドキュメント(情報=DNA)を出す場合、同じドキュメントでも発表のタイミング(国内外の政治・経済環境等の違いが初期値の違いとして働きます)によって株価の動き(結果=形質)はまったく異ったものになるのと同じことです。
以上をまとめますと、「ゲノムの塩基配列が全く同じでも、異なった形質を持つ生物になり得る」ということができます。 一見奇妙な結論であり、また、実際にこのようなことが起こるのは稀でしょうが、進化的立場からゲノムを研究する場合には忘れてはならないスタンスだと思います。 (外部環境に反応して生理的に適応したために形質が変わる場合とは意味が違います。 通常はこのような獲得された形質は遺伝しません。)
つまり進化とは、DNA上に起こった変異(変異の種類と入るタイミング)と生物の実体と環境の相互作用の総和として生物が変化していく過程です。 このようにして、ゲノム・生物の実体・環境の3者間の40億年にもわたる連続した因果関係の最終結果が日常目にする生物の姿であると解釈できます。 例えゲノムの全塩基配列、全たんぱく質の生理作用、遺伝子産物の相互作用等が完璧に解明されても、これらの情報だけではその生物の形はまったく想像もできなのです。 細胞や生き物の全体像は歴史性を無視しては理解できないものなのです。 「DNAには歴史性がある」という言葉をよく耳にします。 本当に歴史性があるならば、ヒトのゲノムを試験管の中で一から合成できるはずがありません。(歴史性を無視してゲノムのどの場所から合成を始めても、また、どのような順番で継ぎはぎをしても最後に出来上がったDNAはヒトゲノムと寸分の違いもありません。) 試験管の中で全合成されたヒトのゲノムは、単なる物質であって生命でも何でもありません。 しかし、一旦、細胞質との相互作用が確立されると、そこで歴史性が生まれ生命体となるのです。
今回は実験的根拠がほとんどない状況で話を進めてしまいましたので、単なる空論である危険性を孕んでいます。 生物学的な用語をできるだけ避けて書いたつもりでいますので、生物学を専門とされない読者の方々のご意見もお待ちしています。 |