前回、このサマーコースについて触れましたが、とても優れた企画だと思いますので紹介する次第です。
おもに、スペインを中心とするヨーロッパの大学院生と研究者を対象としたもので、スペインの国と大学を挙げての事業のようです。私が参加しましたのは、1998年8月3〜7日、マドリッド北部の山際にあるエル・エスコリアル(El
Escorial)という古城のある観光地で催されたコースです。(ここの王様は、かのフランシスコ・ザビエル宣教師をジパングに送った人です。)
複数のコースに分かれていて、私たちのコースのテーマは『進化と自意識;利己的遺伝子からヒトの脳まで』でした。聴講生は生物学から心理学、哲学専攻者まで含まれ、計約50名。スペイン語と英語の同時通訳付きです。世界から集められた15名のスピーカーは、5日間を通して同一のコースの聴講者を対象に1〜2回講義をします。同様のコースは同時平行で開催され、エル・エスコリアルだけでも10余りあったように記憶しています。コースは数学、物理学、化学を始め哲学、音楽、芸術に至るまで多岐に亘っています。私たちが宿泊していたホテルにも、複数のコースのスピーカーが宿泊していましたので、食事時は分野の違う研究者が親しく語り合えるようになっています。また、各ホテルで毎夜音楽会等の催しがあり、分野を越えて聴講生を交えた親睦の機会を持てるように工夫されています。
わが国でこれに近いのは、大学院生が主催している「○○夏の学校」の類で、エル・エスコリアル サマーコースはその拡大・国際版と思っていいでしょう。私の経験の中では、この種の教育型セミナーとしては一番いい企画でした。是非、日本の文部科学省でも参考にしてもらいたいと思います。 今回は、その中からエピソードを2つ。
【K. マリス氏とのこと】
PCR法の発明でノーベル賞を受賞したマリス氏です。私は「進化を加速することができるか?」という演題で話しました。講演中の氏との問答(掛け合い漫才?)も聴衆に大いに受けましたが、ホテルに帰ってからが大変でした。夕食後、赤ワインを飲み始めて、夜が白み始めるまで2人で飲み明かしました。終始話題は、宇宙と生物の起源と進化、に関することで、後で誰かに「よくまあ、ケアリーとあんなに長時間話せるものだ」と感心されました。よく考えて見ますと、われわれ2人には結構共通点があるようです。少々“飛んで”いるところ、ファンタジーが好きなところ、相手の話が分かっても分からなくても平気で会話を続けることができる能力、等々です。
私にとっての収穫は、氏が「不均衡進化理論」の熱烈なファンになったことです。因みに氏の演題は“The incorrigible
and harmless arrogance of human beings fascinated by
their own cleverness”でした。あえて原文で紹介しましたのは、私の日本語訳では正確にニュアンスが伝わらないのではと危惧したからです。氏は第一級の科学者であるのみならず、非常に深遠な哲学の持ち主であることがこの演題からも覗えます。コースの最後の講演でした。本人は解熱剤の影響だと言っていましたが、手がわなわな震えていました。高熱は多分ワインの飲みすぎが原因だと思います。多少は責任を感じています。
【西洋の科学と日本の科学】
スペインの大学の先生が、粘菌の胞子嚢柄の先端が高速道路の電柱のように、それも、ばらばらな向きに曲がっている写真を見せたときでした。今まで静かだった教室が急に騒々しくなり、矢継ぎ早に質問があり、スピーカーも興奮して答えるという状況になりました。早口のスペイン語でしたので通訳も追いつかず、何が問題なのかもわからないまま、しばらく唖然としていました。丁度、横にいたスピーカーの一人に尋ねたところ、<柄が曲がる方向を決めるのは、神の意志か、それとも自由意志(free
will)によるのか?>ということを議論しているのだ、と説明を受けました。即座に、「それと科学とどういう関係にあるのか?」と質問しましたところ、彼は少しはにかみながら、「天地創造の神と対峙することを前提として、勉強を始めるのが科学者としてのスタートである。」と答えました。その時は正直言って、そんなことやっている暇があったら研究した方がいいのに、と思っていました。
しかしよく考えてみますと、私(1932年生)の僅か2世代前の諸先輩が西洋から“科学”なるものを直接輸入したのが日本における近代科学の始まりで、それまでの日本には、草本学や和算等の例を除いて、科学というものは存在しなかった訳です。現在の若手研究者でもやっと5世代目にしか過ぎません。従って、今日でも“輸入された文化としての科学”の影を引きずっているのでしょう。
少なくとも私の場合、若いころは科学者になる必然性は何もなく、ただかっこいいとか、親父がそうだったから、くらいの理由しか見つかりません。わが国のこのような歴史的背景と、有名な科学雑誌に掲載された論文の数で研究者を評価するという風潮とは、あながち無関係ではないような気がしてなりません。
翻って西洋の場合、ガリレオやダーウィンがそうであったように、当時の教会から厳しい弾圧を受けながら、自然法則の発見に文字どおり身を投じたのです。つまり、科学者は神に対峙するという意味で、否応なしに哲学を持たなければならない状況に置かれている訳です。石川統氏の言葉をお借りすれば、神という“反面教師”が居るのと居ないのとでは気合の入れ方と緊張感が異なり、いきおい研究成果も違ってくるのでしょう(シリーズ進化学7、岩波書店、2005)。「人間、苦労せんといかん」という言葉は余り好きではありませんが、科学においてもある種の真実を語っているように思えてきました。
少し話しがそれますが、西遊記が面白いのも、孫悟空がやんちゃの限りを尽くしても所詮お釈迦様の手の平から抜け出せないところにあるのでしょう。 案外、科学とはそういうものかも知れません(ヒトの脳を通して観察・思考・表現している限り、真実=実在というものは結局は分からない、という意味も含めて)。科学者に限ったことではありませんが、創造的な仕事をするには、先ずは、越え難い“壁”を意識し、そして哲学(コンセプト、ストーリー)を持つこと、というのが一応の結論のようです。
最後に、サマーコースには一切参加せず、ワインとアスタマニアーナ的ライフを満喫した同行の娘の言葉を挙げておきます。「お父さん、この国は面白いで。いっぺん家族で住もう!」、同感。
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